漫然とした取り組み
―漫然とした取り組み―
9月から飲酒機会を減らすこととしてきた。
最初に1週間断酒を行い、ことのほか体調が良かった。そのため、体の快適性を考慮し、飲酒に対して従来ほどの積極性がなくなったように思える。
とはいうものの、週1回は飲み屋に赴き、相も変わらず酔っぱらっている。
別の記事でも言及していたことではあるが、やはり一旦酒が入ると制御は困難となる。
これは素面時の飲酒欲求が減退したとしても、関係のないことである。
やはりアルコールは脳の統制を麻痺させ、理性を崩壊させる。
結局のところ過剰飲酒を控えることを誓い実行しようとしても、コップ一杯のビールで、淡雪のような志は溶解してしまう。
何万回と逡巡したことではあるが、酒飲みが飲酒を手控える方法は、唯一断酒することのみなのであろう。
しかし、その一生にわたる断酒へのケツイはあまりにも難しい。
3日ほどの連続飲酒が続くと、さすがにもう暫く飲みたくないと感じる。この時ばかりは、飲酒から解放されることに心から感謝する。もう暫く飲まないとケツイする。
だが、腐った呼気が元通りとなり、便通も正常になるころには、コンビニのアルコール庫がキラキラし始める。
幾度となく繰り返す思考と行動。心を改め、ケツイすることほど虚しいことはない。
昔読んだ大前研一氏の著書にこんなことが書いてあった。
―自分を変えるためにはおおよそ次の3つの方法しかない。
・付き合う人間を変える
・時間の使い方を変える
・住む場所を変える
これは本当に本質をついている。
例えば本気で断酒を検討する場合に、「明日から飲まない!」と心を決めても意味がない。
友人や家族に「酒をやめる」と公言しても、相手のいない場所でコソコソ飲む。
アルコール外来に通い抗酒薬を処方してもらう?いやいや、鉄の意志で薬を飲み続けることができるであろうか。
こういった一見能動的でありながらパッシブな手法では、最初は順調であっても、何らかのきっかけで意志は瓦解する。
では、どういう方法が良いのか。筆者がこれを実行するかどうかは現時点ではわからない。
だが、過去に酒を飲むことがリスキーであると感じた時期があった。それは一心不乱に仕事上の業務をこなしていたときである。ブラック企業で追い込まれていたということでは全くないが、やはり季節によってはパニックになるほど忙しい時期があった。
そんな時期には会社内では一日中振り回され、帰宅後も大量の業務を効率よくさばくためのアイデア出しに脳を使い続けていた。
はっきり言って酒を飲んで思考を鈍らせ、時間を失うことは恐怖であり、愚かな行為とさえ認識していた。
この事実から導出できることは次の通りであろう。
グダグダと酒を飲んでいる余裕があるときは余剰時間に飼い殺されており、脳内での生産活動を怠けている状態である。
つまり、時間の使い方を変えてしまえばよいのである。
禁酒・断酒により発生する余剰時間の使い方を考えるのではなく、そもそも存在する余剰時間を先に埋めてしまうという解釈が正しい。逆説的に捉え、酒を飲んでしまうと実行すべきタスクを実現できないようにするのである。
ただ、これも言うは易し行うは難しであって、相当に自分を興奮させる趣味や、責任を伴うものでなければ三日坊主になる。
筆者は俗物であることを自覚しており、凪のような心持で長期間酒から離れることはできそうにない。恥ずかしながらアルコールによる快楽は人生の妙薬であり、自己解放の手段である。
うまく報酬系回路を作用させながら、酒の代替になるものに時間を費やすことが飲酒離れの一歩となるのであろう。Nanika wo sagashimasho.
秋も深まりつつある。
秋霜覆いしススキと、路辺のドングリ。山の端から抜け聞こえる国道の土煙。
一輪を手押す祖母の手ぬぐいホッカムリ。
どうも今年は田舎の秋を楽しめそうにない。つまらないから、ボジョレー解禁までまた酒断ちすることとする。
Moriss