関西人の粉物好き

―関西人の粉物好き―

 

さて、唐突ながら関西人はお好み焼きが好きである。

筆者も関西人であることから、お好み焼きは大好きである。偏執的なまでに好きである。

 

東京に引っ越してきてからというもの、あまりお好み焼きを食べる機会がない。

否、積極的になればいくらでも食べる機会はある。だが、行動を起こさない。

なぜか。関西本場のお好み焼きが恋しいからである。

 

本稿にて東のお好み焼きを否定するつもりは毛頭ない。そもそも文化が異なるのであるから、それは野暮というものである。また、東京にもかなり関西の味に近いお好み焼き屋は存在しているので、そんなことを語るのはあまり意味がない。

しかしながら、やはりお好み焼きは関西なのである。

東にいる期間が長くなるにつれ、お好み焼きへの哀惜の念が募る。時々思う。

「なんでこんなにお好み焼きに執着するのか」

 

関西食文化は粉物だけではない。関西出汁のおでん、おばんざい、漬物など枚挙に暇がない。

どれも東ではあまり食べることのできない代物である。だが、これらの食べ物にはそれほど恋焦がれない。

そんなことから、関西人がお好み焼きを愛してやまない理由を考えてみたところ、「お好み焼き」という存在が、関西人のマインドとうまく馴染んでいることが背景にありそうである。

考察の切り口を「歴史・文化」と「関西人のDNA・気質」として語ろうと思う。

 

※なお、本稿で言う「関西」は主に大阪を中心とした畿内の意である。

 

 

お好み焼きの歴史・文化

まずはお好み焼き、ひいては粉物の文化がいかに日本→関西へと広まったかということを調べてみる。

 

歴史・文化を語るにつけ、まずは原料となる小麦粉にフォーカスを当てることとする。

日清製粉グループの情報では、小麦は弥生時代中期から生産されており、当時は「重湯」のような形で食事に使用されていたようである。その後、紀元前2000年頃にはパンに似たものも作られていたとのこと。かなり昔から祖先の食卓には小麦が並んでいたということになる。

 

その後の広がり方としては、鎌倉時代に入ると饅頭が世の中に出回り、安土桃山時代ではお好み焼きの原型とも言われる「麩焼き」が茶会にて提供されることとなる。

この麩焼きは千利休が考案したと言われており、茶会での目新しいもてなしを模索し続けた茶聖ならではの発想によるものである。

味噌・山椒・芥子の実などを薄く焼いた小麦で包んだものであり、クレープのようでもあるが、どちらかというと薄皮饅頭に近いのだろうか。今でこそよくある食べ物であるが、当時としてはかなり斬新であったと思われる。

 

「麩焼き」によりお好み焼きのベースが出来上がったが、まだまだお好み焼きには遠い。

この後、麩焼きは少しずつ形を変えていく。

まず、江戸時代には「助惣焼」なるものが江戸を中心として売られ始めた。

これはクレープ状の生地で餡子を包んだものである。形状としては棒のようであり、皮の柔らかい春巻きお菓子といった風情である。この頃から小麦で何かを包むという用途で利用することが広まったのであろう。

明治になると東京では「どんどん焼」、近畿では「一銭洋食」の人気が出始める。

麩焼き・助惣焼はともにお菓子としての位置づけであったが、これらの焼き物は軽食として味付けられ、ボリュームも少し大きくなった。

「どんどん焼」は「もんじゃ焼き」を持ち帰りできるよう、固めて作ったものが起源と言われている。なるほど、ここまでくると確かに小型のお好み焼きの様相である。

一方で「一銭洋食」は、薄く焼いた小麦粉の上にネギ・肉片などを乗せ、半分に折りたたんで巻いた食べ物であった。味はほぼお好み焼きであろうが、具を小麦粉で混ぜて焼き上げるというものではなかった。

「どんどん焼」と「一銭洋食」を比較すると、明らかにどんどん焼のほうがお好み焼きに近く、お好み焼きのルーツが関東圏であったことは意外な発見であった。(正直、何となく大阪圏で流行りだしのだろうなと推測していた、、)

 

その後、昭和初期にはどんどん焼は東京で「お好み焼き」として変化し、西方にも広がることとなる。

 

 

■関西地方(大阪近隣)でのお好み焼きの広がりと、DNA・気質

上述した通り、お好み焼きは元来関東圏で広まったものであるらしい。

であるならば、なぜお好み焼き=関西という構図が社会通念として一般化しているのか。

そして、どうやって関西でお好み焼き文化が発展・定着したのかということが疑問となる。

 

これに対する回答は次の2つである。

・DNA

・文化としての土壌

 

1)DNA

DNAから関西でのお好み焼き文化が実現したことを考えてみたい。

これは先天的なものと後天的なものに分かれるように理解している。

 

まず先天的な話では、お好み焼き、ひいては粉物文化が関西人にとって容易に浸透した裏に、大昔から麦を積極的に食していたということが挙げられそうである。

これは国内の比較論であり、日本を真ん中で分断した場合に、昔から東~北は米処のイメージが強い。(もっとも北海道が小麦の産地であることは重々承知している)

どちらかというと、米が中心の食文化と言えそうだ。

 

一方で、西日本や畿内では鎌倉時代から二毛作が行われていた事実がある。また、麦類の生産量においては、北海道に次いで福岡県、佐賀県と順に並ぶことからも、西方にて麦の生産が多かったこともわかる。つまり、米も作るけど、小麦も育てて食べるよという文化であったのだろう。

これだけの証左で決めつけを行うことは良くないかもしれないが、少なくとも関西では麦を食する文化が過去から醸成されており、関西人のDNAにも粉物を容易に受け入れる態勢は先天的にあったと言えそうだ。

 

※ちなみに筆者が東に引っ越して初めて知ったことだが、食パンのカットが基本6枚、8枚切りであることは驚いた。関西は5枚か6枚が主流である。これも小麦を分厚く食したいという願望ゆえか?

 

 

次に後天的な話をすると、大雑把には次の文言に集約される。

「関西では子供のころから粉物教育が施される」

 

別に粉物文化の学習を受けるということではない。では何か?

食事/おやつとして、幼少期からかなり粉物に触れることになるのである。お好み焼きのみならず、たこ焼き、うどんなどを頻繁に食する。関西ではどこの家でもたこ焼き機があるという話を聞いたことがあるかもしれない。実際は嘘だが、勢いとしては間違っていない。(筆者の家にはたこ焼き機はなかった)

何故そんなに粉物が出るかということだが、シンプルに美味しいので家族皆が喜ぶということと、手軽に作ることができる割に腹持ちがよく、ママさんハッピーということなのであろう。

つまり子供時代から食事として粉物が提供されることは至極普通のことであり、何らの抵抗も持たないように訓練される。

 

筆者はずっと関西で育ったので、東における家庭での食事事情は明るくない。だが、お好み焼きを3食のいずれかで供することは、ゼロとは言わないまでもかなり頻度として低いのではないだろうか。

筆者の家庭では、土曜や日曜の昼食にお好み焼きやうどんがよく出てきた。お好み焼きの具には豚肉やイカ・エビが入っており、さらに甘辛いソースと酸っぱいマヨネーズが、子供の舌には大ウケする。また、お好み焼きは家庭用のホットプレートで焼き上げ、家族皆で小さなコテを使って切り分けて食べる。後述するが、このワイワイした雰囲気が楽しかったりもした。

 

このような環境に基づき、半ズボンを穿いて遊びまわっている頃から徐々に粉物の虜となり、一端の粉物好きは高校生くらいになると、自分だけの美味い店を探し始めるようになる。

筆者もご多分に漏れず、高校からの帰宅途中に友人とお好み焼き屋に顔を出していた。

15時半頃に寄り道していたのであるから、おやつ感覚である。もちろん夕飯は家で改めて食べていた。(なお、この店には今でも年1~2回は顔を出している。)

つまり何が言いたいかというと、関西では図らずも粉物の英才教育が行われており、意図せずお好み焼きやたこ焼きに心がときめくように育ってしまうのである。

 

※脇道に逸れるが、関西人がお好み焼きを食事として認識しているスゴイ食べ方がある。

それは、【お好み焼き+白ご飯+味噌汁=お好み焼き定食】 というものである。

つまりお好み焼きがオカズとなっているわけだ。この事実を鑑みても、いかにお好み焼きが食文化に深く根差しているかがわかると思う。

 

 2)文化としての土壌

 

【ワイガヤ】

関西人はワイワイガヤガヤが好きである。

街中もワイワイ、電車の中もガヤガヤ。もちろん食事の最中も喧騒が好きである。

 

おおよそお好み焼き屋は次の2パターンに分かれる。

・カウンターに長い鉄板があり、オヤジまたは女将さんが客の前で焼く

・個別テーブルに鉄板がついており、店の奥で焼き上げたものを供する

 

カウンター形式であれば、オヤジが客と会話を弾ませ、あるいは客同士で盛り上がったりする。

この場合において、客同士が知り合いである必要性は全くない。赤の他人でも勝手にしゃべりだす。

なお、近畿圏では割と普通の光景である。

またテーブルでは、大体は友人・家族と食べに来ているケースとなろう。焼きあがるまでの時間は酒でも飲んで歓談しつつ、鉄板にお好み焼きが届けばウマイウマイとホフホフしながら食べる。そしてしゃべり続ける。

 

要するにカウンター、テーブルを問わず、ヒトとの物理的距離が近く、味だけでなくヒトの集合体としての雰囲気や時間の使い方も楽しんでいる。常にワイガヤの状態である。

 

【混ぜ好き】

ざっくりとしたお好み焼きの作り方。

小麦粉にキャベツ・卵を入れる→山芋少々を入れる→好きな具材を入れる→「混ぜ混ぜ」→焼く

 

この「混ぜる」という行為に注目したい。

お好み焼きを混ぜる行為には、卵をとかすことは勿論、フワッとした仕上がりを実現するため、空気を含ませる意図もある。さらには焼き上がりの際に具材が偏らないよう、均一化する目的もある。

これはお好み焼きを焼くためには欠かせない合目的な調理過程である。

 

ここで一歩踏み込んで「混ぜる」を考えてみると、関西人は料理を結構こねくり回す。

丼もの、カレー、果てはミルクを入れたアイスコーヒー、、、

親子丼、牛丼は全体にだし汁をなじませるために混ぜる。

カレーは、汚い・見苦しいとわかっていながらも混ぜる。人前では極力控えているとしても、家で一人きりであればおそらくかき混ぜるはずだ。

アイスコーヒーにミルクを入れたおばちゃんは、意味もなくカラカラとストローを回す。これ以上攪拌できないにも関わらず何故か混ぜたがる。

 

単純な目的としては、味の均一化という合理性に基づくものであり、その背景には食べ口によって味が異なることはもったいないという一種のセコさがあるのかもしれない。

要するにカレーを食べる際には、白米の口への運び方につき、カレー:ルーが1:1でなければ何か損したような気がするという話である。(知らんけど)

 

一方で関西人の気質をベースに概念的な検討をすると、カオス状態にあることを望む傾向があるという結びになる。

丼もの、カレーを例にすると、きれいに盛り付けた状態で供されても、かき混ぜる。混ぜ混ぜ混ぜ混ぜ。そしてこれは食事に限ったことではない。ファッションにもそのような傾向がある。

関西圏(特に大阪)を歩いていると、なぜその組み合わせなのかという理解に苦しむような服装をしている御仁がいる。同一ブランドでシンプルかつ涼やかにまとめれば、決しておかしなことにはならない。だが、混ぜる。敢えてくどくなるようにしているとしか思えない。個性と言ってしまえばそれまでだが、、、カオスである。

 

つまり、地域の空気として、整然としていることを「スカした感じ」と受け取り、原型破壊・にぎやかしが是と認知されている。

無理やり感が否めないが、混ぜ混ぜするお好み焼きも、関西の文化として馴染んでいるのである。

 

 

■結びとして

歴史的な背景においては、お好み焼きの原型は関東で出来上がった。

しかしながら、お好み焼きという食べ物が広く浸透し、固有イメージを確立したのは関西であった。

本稿では、関西人が昔から麦類を食べることを日常のものとしており、その遺伝的な裏付けにより受け入れられやすかったこと。また関西では成長の過程で粉物に触れる機会が多いことを記した。

 

そしてワイガヤ、混ぜるという行為に通底する関西人の気質とマッチして、粉物文化が無意識ではあるものの肯定的に定着したという結論を出した。

実際のところ、粉物の手軽さや、そのバラエティー色豊かな面も要因となり得ようが、あまり面白い話になりそうではなかったので、今回の主眼から外した。

 

 

■その他思うこと

お好み焼き定食

上述したが、お好み焼き定食というものが関西にはある。

チェーンのお好み焼き屋ではあまり見かけないが、大阪の個人店では昼間のサービスとして提供してくれる。

食べる人は好んで食べるが、筆者は好んで食べない。

何故か、炭水化物 on 炭水化物だからである。ラーメン定食もよく似たものだろうという声が聞こえてきそうであるが、はっきり言って異なる。

何といえば良いだろうか、重いのである。汁っ気がないので、味はついているものの、大量の米をかきこんでいるような気がする。それに個人経営の店のお好み焼きははっきり言ってデカい。それだけで十分なのである。

 

ただ、気になった方はぜひ関西で試してほしい。

 

 

・イラチ

混ぜて焼くだけの手軽さが関西人に受けていることは間違いないと思うが、焼くには時間がかかる。

手軽さは好ましいが、時間がかかることは嫌う。

店でお好み焼きを注文すると、食べ終わるまでに最低でも30分はかかる。

まず焼きあがるまでに10分ほど要するため、イラチ(=せっかち)な関西人にはあまり好ましいことではないのかもしれない。

だが、事実は異なる。皆文句を言わずに焼き上がりを待つ。

結局のところ、【お好み焼を食べる喜び>待つ時間】 の公式が成り立っており、先にも書いたが、皆ワイワイしているのでさほど時間が気にならないのであろう。

本当に昼から酒を飲んでスポーツ新聞を広げて待っているオッサンも普通にいる。

 

だが、これだけは言っておかねばならない。店に入って焼き上がりは待つが、外で入店待ちをすることは極端に嫌う。この点はイラチなのである。

 

 

Moriss